中川政七商店の成り立ち
享保元年から300年かけて
つくりあげたブランド。
1716年、奈良晒黄金期に初代中屋喜兵衛が
奈良晒の商いを始めたのが、中川政七商店の始まりです。
歴史が移り変わる中で、
それぞれの時代に合わせて歴代の当主たちは
さまざまな改革を行ない
現在の中川政七商店へと繋がっています。
300年続く中川政七商店がどのように繋がり、
現在に至ったかをご紹介します。
奈良晒の起源は鎌倉時代にまでさかのぼり、南都寺院の袈裟として使われていたことが記録されています。文献に奈良晒の名が登場するのは、16世紀後半に清須美源四郎が晒法の改良に成功してから。17世紀前半に、徳川幕府から「南都改」の朱印を受け御用品指定され、産業として栄えました。当時は主に武士の裃、僧侶の法衣として使われていました。また、千利休に用いられたことから、茶巾としての需要もあったようです。17世紀後半から18世紀前半にかけて産業はピークを迎え、生産量は40万疋にも達したと言われています。当時の繁盛は井原西鶴の『世間胸算用』にも登場するほどでした。
そんな黄金期のさ中、初代中屋喜兵衛が奈良晒の商いを始めたのが、中川政七商店の始まりです。
江戸時代後期から、越後や近江といった他産地の勢いが増し、生産量は往時の10分の1ほどになっていきました。そして、明治維新により武士が消滅したことで最大の需要源を失い、奈良晒の衰退は決定的なものとなりました。しかし、この難局に立ち向かったのが9代中川政七。当時の品質を守り続け、風呂あがりの汗取りや産着などを開発し、新しい市場を切り開きました。汗取りは皇室御用達の栄誉を受けました。
産業は衰退し続け、いったんは廃業寸前にまで追い込まれる中、10代中川政七は奈良晒の自社工場をもつことで製造卸として商売を再建させました。この時代、都市における手工業として再出発した奈良晒は、農家の婦女子の農閑期の大切な家内労働でした。そこに目をつけ、機場を月ヶ瀬・田原・福住に、晒工場を木津川に建て、市場から消え去ろうとしていた奈良晒の復興に尽力しました。
フランス・パリで開催された万国博覧会に、中川政七商店は麻のハンカチーフを出展しています。極細の手績み・手織りの生地に、鳥草木紋が繊細な手刺繍で施された逸品です。現在も5枚現存しており、直営店に飾られています。
高度成長期真っ只中の日本で、人件費・つくり手の高齢化などの問題により、手仕事での奈良晒の製造は難しくなっていきました。奈良晒製造卸業から撤退するか、または国内での生産体制を機械化するか。同業者はどちらかを選択していきましたが、11代中川巖吉はどちらも選びませんでした。巖吉がこだわったのは「手仕事から生まれる独特な風合いを守る」ことでした。そこで人件費を安く抑えるため、生産拠点を韓国、そして中国へと移し、昔ながらの製法を守りました。
12代中川巌雄は、麻の茶巾づくりを突破口にして茶道具業界への参画を図ります。当時職人が発注から納品まで1年近くかけオーダーメイドでつくっていた仕覆(抹茶を入れる「茶入れ」を保護するための袋)に目をつけ、アパレル的発想から、仕様書をつくり内職で仕上げる、というやり方で製作。早い・安い・丁寧な仕覆は評判となり、卸先が一気に増えました。以降、麻を使用したものを中心に、茶道具関連の取扱い商品を増やしていきます。
本社の移転に伴い、空いた仕事場で麻小物の小売を開始しました。「遊 中川」と名付けられた小さな奈良の店が、今に続く生活雑貨事業のはじまりです。現在も中川政七商店 奈良本店の一角として現存し、築130年の町家の佇まいや麻問屋の面影を感じていただけます。
13代中川淳は、ものづくりの想いを「正しく伝える」ためには、自分たちで直接お客様に届けなくてはならない、という考えのもと、直営店出店を加速させ、SPA業態を確立していきます。
「粋更kisara」を東京デザイナーズウィークで発表。「粋更kisara」は2006年に表参道ヒルズにフラッグシップをオープン。更に多くの方に弊社のものづくりを知っていただくきっかけとなりました。
「日本の工芸を元気にする!」というビジョンが生まれ、日本全国300産地が元気になる未来を目指す新たな事業が立ち上がります。「経営再生コンサルティング」は、決算書の見方から商品設計、年間の製造計画まで自社のノウハウを他の工芸メーカーにも共有する、いわば経営の家庭教師。
初のコンサルティング事例である長崎県・波佐見焼のマルヒロは、陶磁器ブランド「HASAMI」が大ヒット。その後も包丁や漆器メーカーのコンサルティングを手がけ、現在までに60社を超える企業の経営再生をサポートしています。
また2008年には、看板商品「花ふきん」がグッドデザイン賞金賞を受賞しました。
「暮らすように働く」をコンセプトにした新社屋が奈良市東九条町に完成。設計は吉村靖孝氏。この社屋はJCDデザインアワードやグッドデザイン賞など数々の賞をいただきました。
日本の土産ものを扱うブランド「日本市」を発表。
会社名を冠したブランド「中川政七商店」発表。11月には京都・ラクエ四条烏丸に一号店がオープンしました。
コンサルティングによって生まれたブランドの流通サポートの場として、合同展示会「大日本市」を立ち上げました。全国の工芸メーカーと小売店バイヤーが一堂に会し商談をする、これまでにない展示会です。当初4ブランドでスタートした大日本市は、今では70を超える出展ブランド、約3000名のバイヤーが訪れる規模へと拡がっています。
創業300周年事業として、日本各地の産地の工芸と人との出会い、学び、体験を通じて土地の魅力を再発見する大日本市博覧会を東京・岩手・長崎・新潟・奈良で開催し、累計7万3千人の方にお越しいただきました。奈良博覧会では13代が中川政七を襲名し、100年後の工芸大国日本の計を誓う口上で、300周年を締めくくりました。
トップダウンから最強のチームワークへ。
3月に社長交代。13代中川政七は会長に、14代社長には千石あやが就任しました。創業300年間にしてはじめての、中川家以外へのバトンパス。
「いい企業文化を育むにはトップダウンではなく、一人ひとりが戦闘力を上げる必要がある。」そんな想いのもと、最強のチームワークを目指して舵を切りました。
「日本の工芸の入り口」をコンセプトに掲げ、過去最大となる約130坪のスペースに、全国800を超える作り手とともに生み出した約4,000点の商品が並ぶ旗艦店「中川政七商店 渋谷店」がオープン。ものづくりの背景にある物語を見て・読んで・食べて・触って・感じていただける新しい試みの店舗です。
2020年には新業態「中川政七商店 分店」が始動。「服」や「旅」など、専門性を切り出した店舗が続々生まれています。
中川政七商店初の複合商業施設「鹿猿狐ビルヂング」が、まちづくりの拠点として2021年4月に開業しました。
工芸の復活には、ものづくりだけでなく、それを生み出す産地自体が活性化することが必要です。産地へ人を呼び込む「産業観光」を奈良で実現し、モデルケースとなることを目指しています。